多言語、外国語、マルチリンガル

25歳まではセミリンガル(ダブルリミテッド)だった私が変えた事

2015年12月25日

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25歳まではセミリンガル(ダブルリミテッド)だった私が変えた事

2015年12月25日

この記事では、現在マルチリンガルとしてブログ、外国語コーチをしながら、海外に拠点を置くようなスタイルで働いている私が直面していたセミリンガルの体験や、セミリンガルの意味と通じて、より多くの人に、この言葉の意味と、日本語を勉強する大切さを知ってもらえたらいいと思う。

私はブログでは全然宣伝すらしていないが、現在はいろんな国にある拠点を転々としながら仕事をしている(バックパッカーとかではありませんw→アパートメントホテルを転々…)

以下ドバイに寄ったときに撮影。必死で日本語を除いた6言語話しているので、笑わないでね…

 

なので、そこに到達するまでの道のりも、この記事からわかるようになっている。ではでは、はじめちゃおう(^_-)-☆

 

①セミリンガルの意味

セミリンガル?この言葉は辞書などにも掲載されいなく(2015年時点で)、ペスクタリアンのように正式には認知されていない言葉だけれども、言語学者の間で広く使われていて、一般に通じる言葉になっているそうだ。セミリンガルとは、バイリンガルでありながらも、例えば日本語と英語の両方の言語を話すことはできても、どちらの言語もネイティブ並みに操れない状態のことを言う。

なので、例えば帰国子女の人たちが日本で就職する際に、日本語で、日本のお客様と電話対応できるレベルではないくらい。つまり、尊敬語・謙譲語・丁寧語をきちんと理解できていない場合、セミリンガルと疑うべきではないだろうか。

私は今まで何度かこういう人たちに会ってきた。たとえば、アメリカで中華系の両親に育てられた中華系アメリカ人。英語はネイティブ並みだけれども、家族と話す共通語である北京語は日常会話レベルまでできても、漢字が書けないので難しい話ができない。

それは両親がアメリカで将来困らないように、英語だけに集中させたという愛情からでもあるのだそうだ。

日本語や中国語は、漢字で表すことによって語彙を広げているので、漢字の仕組みがわからないと、同じ読み方の語彙に遭遇した時、混乱してしまう。

同様に、小学校のうちから子供に英語を勉強させることは悪いことではないが、その分、日本語の国語力も鍛えてあげることが、将来、子どもにとっても良いのかもしれない。

なぜなら、私は言葉の面で、本当に苦労してきたからだ…。

 

②私が言語の面で苦労してきた理由

私は偏差値35以下のバカ高出身。もちろん、知らない日本語の語彙が多かった。高校の時は勉強なんてせずに遊んでいたので、バカ高の中でも、クラスの中で成績は後ろから二番目か、またはビリ。数学のテストは大体は白紙。ということは当たり前。

たとえば、天皇陛下の段の階だと思い込んでいたり、語彙(ごい)という単語すら知らず、娯楽(ごらく)と読んでいたり、それはもう酷いものだった。

そして、私は高校3年生のときに、運よくメル友に韓国、グアム、オーストラリアに連れて行ってもらうという体験をする。

そこで私が思っていた、高校を卒業したら英語圏で暮らして幸せになるんだぁ~みたいな、ぼんやりとした夢が確信に変わる。

そして18歳の時、高校を卒業。

 

③英語だけしか意識しなかった数年間

以後、国語なんて勉強せずに、全く分からない英単語をただひたすら、小学校レベルで勉強していた。あの頃、尊敬語・謙譲語・丁寧語の本なんて、読んでいるとバカらしくなるくらい、アメリカに憧れていた私は、日本のすべてを自分から取り払おうとさえしていたのだ。

とりあえず、若いうちは、将来英語で仕事ができるようになるために、日本語を忘れて英語に慣れようと思ったのだ。なぜなら、他のアジアの言語とは違い、英語は言葉の概念が日本語と全く違ったりする場合があるからである。

つまり、東アジアの言語に比べると、完全一致できない単語が多い。(読み方は違えど、中国語と韓国語は、日本語と、多くの単語を共有している)

で、どのような方法で日本にいながらも英語環境を作ったのかというと、それは日本で暮らしながらも、日本語をあまり使わないバイト、たとえば、データ入力などの仕事を黙々とやり、プライベートでは英語だけを使うというものだった。

インターネットの外国人交流サイトで、オンライン友達を作って、当時あたり前のように使っていたMSNメッセンジャーで外国人とリアルタイムでチャットしたりするのも日課となっていた。

英語話者だけではなく、中国人などとも英語を使ってコミュニケーション。また英語だけのブログを書いたりもしていた。

そんなことに時間を費やしていたので、私の国語力は中学校レベル、またはそれ以下だった。それでも、経済や政治には興味があったので、そういうものを理解することはできても、それを言語化して伝えようとすることができないのがあの頃の自分だったと思う。

 

④社会人になってから、日本人と話す恐怖

こんな生活を続けていると、バイト先とかでも、日本人が普通に使っている言葉の中で、私なら絶対に口からでてこないというものをたくさん発見することになる。

そのたびに、「私は他の日本人と違うし。」と思い込んでいたバカだったあの頃。実際は、劣等感の塊で、それにさえ気づけず、また日本人と話すことも怖かったことがあったくらい。

例えば何かを反論しようとしても、言葉を上手く組み立てられない。そしてそれが苛立ちとなり、いつもそういう場面に直面したときは、感情的になっていた気がする。

そのたびに、「中国では皆、こうやって感情的になるやん。」と自分に言い聞かす…。(;^_^A

 

⑤漢字が読めないのは、ある意味、韓国人と同じだったと気づく

考えてみれば、漢字の読み方が分からなかったあの頃、私はまさに漢字を書いたり、読んだりさえしていなかった。本を読んだとしても、知らない漢字を知ったかぶりして、日本人だから当然わかるもん。っていうように、読み飛ばしていたし、それが当たり前だとも思っていた。

韓国人が漢字が書けないのに、漢字を使った言葉を話すように、耳から聞いたものをしか話すことができなかったのが25歳までの私。

韓国に住んで色んな層の人と話すと、やはり学歴によってその人の語彙力は全然違うことに気づく。(日本でも同じだが)韓国はそれがもっとひどいのではないかと感じることがある。それは、彼らは漢字語を話しているのに漢字が書けないためなのではないか。と、韓国人に直接カフェで聞いたことがあった。彼らは否定したが、私がいくつかの韓国語の単語に隠された本来の漢字の意味を問いただすと、やはり理解できていなかった。

たとえば、物理。という単語を韓国語では、ムッリチョッと言うが、この物は、韓国語では、水を表すムルと同じ発音なので、極端な話、水理的というイメージを持っている人も、いるかもしれないという話である。

まさに私が天皇陛下の、陛と階を勘違いしていたような、類のものにも思えるが…。また一つ思うのは、このブログを見ても分かる通り、韓国の反応を翻訳していても、韓国人が使う韓国語が日本人のそれよりも、ガタガタであるという点。なので、私は韓国人が韓国語をあまり理解していないのではないかと疑っているのだ…。

今考えると、25歳までの私の日本語レベルってそんな感じだったのかなぁ。ということなのである。

 

⑥上海の誕生日パーティーで恥をかいて気づく

そんな私は、そのころ上海に数ヶ月滞在していた。上海に住みながら大学の通信講座を受け、仕事探しをしていた時だった。上海で知り合ったお金持ちのお嬢さん(中国人だけど日本で幼児期教育受けた人)と友達を通じて知り合うことになり、彼女に気に入られた私は、彼女の誕生日パーティーに、参加することに…。

そうこの誕生日会で、とても恥ずかしい場面に出くわしたのだ。それは、英語で自己紹介する場面があったこと…。今まで自分では、「英語もうペラペラだから、中国語勉強するし」みたいに思っていたのが、自己紹介すらできなかった。ということに気づいてしまったからだ…。

 

⑦初心に戻り、まず、一つの言語を極める

そこで、私はとにかく1つの言語をきんとやらなくては!という気持ちで、上海に住んでいる場合ではないと思い、米国を目指すことになる。親友のキャサリンに会いに行くために、データ入力の仕事をしていた二か月間は、中級語彙をたくさん仕事中に吸収していた。

それは、flourish とか、parameter とか、今まで見たことのなかった中級単語だ。

その後、2回目のニューヨークに行くのだけれども、やはりアメリカに滞在する日本人の英語も、それほどレベルが高いというものではなかった。これはカナダにワーホリで滞在した時に感じたことと同じ。(場所にもよるが)

私が出会えた人たち、例えば、ゲストハウスや日本人同士で固まっている人たちなど。一方、私の親友のキャサリンも一般のアメリカ人(白人)ではあるが、英語を教えるほどまで英語を理解していない状態…。

 

⑧日本語教師として母語を極めながら、英文法の勉強に専念する

そんな中、私は数年前に通信講座でなんとなく取得した日本語教師養成講座420時間を利用して、海外で日本語教師になる。日本円で、月給5万円くらいの日本語学校からスタートした。

ここでで二カ月も経たないうちに解雇される。北京郊外の田舎で日本人が全くいない田舎でさえ、私は解雇されてしまったのだ。


この時、私は変わらなくてはならないと強く思った。

このままじゃ日本には帰れない。どうにか日本語教師として経験を積み、母国語を鍛えたい。そして、現金もあまりない状態で、海上ルートで(フェリー)韓国に入国。

ここ韓国で、日本語教師として働かせていただくことになる。つまり、私は拾われて、救われたんです。給料は5万くらいだったが、貧乏生活で数カ月しのぐ。

そこで私は自分のクラスを持つことになり、私自身も、日本語の基礎から勉強を始めたのだ。

たとえば、これを食べさせてください。

この、させる?って何?というところから、細かく分析することを決心。それと同時に英語のフォーレストという文法書読破した!と言いたいところだが、正直に言うと、

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無理をせずに、1日数ページを好きなページからやるというふうに続けた。読んだときに、文法の構造上完全に理解できるものは、鉛筆などで×をつけて、何度もそのページを開いても、×が付けられていない箇所は、自分が覚えられていないところなので、それらをパソコンのワードにまとめたりするような作業。

ちなみに、このフォーレストは、韓国に来る前に、一度購入していたのだが、続けられる自信がなかったため、ちょっとだけ目を通して結局、中国の日本語学校に移動するときに捨ててしまっていた。

けれども、今回は韓国で英語の基礎をきっちりやるという気持ちから、福岡領事館にワーキングホリデーのビザを申請するとき、博多駅の書店で思い切って再度購入。(お金かけると、やらなきゃって思いますよね…)

私はとにかく読むことにおいて、文法上理解できるようになることが韓国にいたときの目標だった。大学受験に励む韓国の高校生に紛れ込みながら、真冬の図書館でただひたすら、この文法書と向かっていた。

そして、×をつけて完全に理解できたところはページごと破りとって捨ててしまうので、この文法書はだんだん薄くなっていった。

貧乏生活が耐えられなくなり、韓国の二倍は給料が貰えて、韓国ワンルーム程度の部屋の家賃と同じくらいの料金で高層マンションの20階以上に住める中国の南京で日本語教師を続けることを決意。

この日本語学校では100人以上の生徒に、日本語の先生は常勤で二人しかいなかったので、私は大忙しで、プライベートで勉強する時間はほとんどなかった。中国語も特に使わず、日本語教授経験だけが増えていくという感じ。

生徒の中には、大学院生、私よりも日本語が上手な中国人、弁護士、68歳になってまでも日本語を頑張り続ける熱心なおじいちゃん。とにかくここの日本語学校は学費が高額だったせいか、教育をしっかり受けてた生徒さんしかいなかった。

そして、生徒さんの要求も高く、私に色々な違いなどを聞いてきたり、積極的な生徒さんが多かったのだ。

その中で私は自分が学術的に人より遅れているということを感じたのです。

今までヨーロッパや北米、オセアニア、中国や韓国を旅行して、色々な人たちを見てきた。そして、ニュースも欠かさず色々な分野を見ていた。けれども、私には基礎が足りなかったのだ。論理的思考もなく、感情的で、突発的で、衝動的…。

この時点で、私は物理的に、とか、理性的とか、理屈いう言葉すら知らなかったんですよ?

今までずっと日本語を避けてきたのだ。それは上述したように、日本語を一切忘れて、英語だけで考える脳を鍛えようとしたからだ。

これらの言葉を覚えてから、私は理性的になろうとか心の中で思うようになり、そして私自身が変わったのを強く覚えている。なぜなら理性的という言葉を知らな時点で、何が理性的なのかもわからず、私の行動が果たして正しかったのか?という思考もできないからだ。

こんな状態では日本語を教えることはできない。

日本人のいない南京で、日本人というだけでチヤホヤされ、楽しかった日々を捨てて、戻りたくなくない日本に戻って職業訓練校に通うことを決意する。

 

⑨職業訓練で持ち歩いた国語辞書

https://www.kyuuto.be/japanese-study-books-dictionaries/

※写真はイメージ。実際は国語辞書。

職業訓練では、貿易・マネジメント・簿記を学ぶコースに入ったが、私はその間、購入した国語辞書を毎日鞄に入れて持ち歩き、自分の口から発せない日本語にひたすら線を引いていく作業をし、この職業訓練校にいた間は、主に母国語の増強をしていた。

一方、職業訓練校を終えたら韓国の大学に入学すると決めていたので、韓国語もやっていた。

職業訓練校では、毎月10万円支給していただき、数ヶ月間その状態で生活していたが、あの貧乏生活は忘れられない。


苦境に陥っているとき、人は一番楽しいのではないでしょうか?這い上がろうと、努力する、そしてそれが実感できる状態になるからだ。

このとき私は、24歳。私はホストクラブで働いていた時、社長にこう言われたことがある。「お前は、23歳までは可愛いでいられる。けれど、それ以降はその分努力しないとダメだ。」まさにそんな状況だった。

 

⑩韓国の大学で、やったこと(英語学習において)

その後、韓国の高麗大学の語学堂で韓国語を数カ月学び、韓国の国立大学の英文英語学科に1年間だけ入学した。そもそも、私が韓国の国立大学に入学した理由は、学費が安く、夏休みと冬休みに日本に帰ってこれる上、授業の半分以上が英語で行われるからである。

なので、主に会話を中心とした英語のコミュニケーションに力を入れた。そして、ラテン語を起源とする英語を根本的に理解しようと、英語版の聖書を持ち歩き、色々な教会に行って英語で聖書の内容について話し合ったりもした。

現在、数社での英語業務を経て、ブロガーとして海外を転々としている生活を送っている。

とはいっても、英語においても、未だ日々勉強だ。言語をマスターするなどとよく言うが、多言語に流暢になることはできても、マスターするという事は不可能。(文法をマスターや、発音をマスターならあり)

なぜなら、マスターはすべてを理解するという意味を含んでいるからだ。なので私は、マスターしたという言葉があまり好きではない。

そう、私は謙虚に、もう一度初心に戻って、この外国語と向かわなければならない。

 

この記事を書きながら改めて思う事

この貧乏生活、波乱万丈な日々がなかったら、私のような怠け者は、企業で英語翻訳ができるレベルまでにはならなかった。これは断言します。

私の性格というのは、マイペースで自分のしたいことしかやらないような性格だ。だからブロガーなんていう職業なのだけれどもね…。

それに、今まで勉強もできなかったし、しようともしてこなかった。教科書を開けば眠くなるし、特に人の話を今まで聞かないような人だった。でも、この波乱万丈な過去のおかげで、私は言葉の1つ1つに興味を持つようになり、今ではブログをご覧になっている人は知っているかもしれないが、語源の解説記事を書いたりと、言語に時間を費やすことが、私の人生においての快楽になっている。

私は今まで忘れないで思ってきたこと。

仕事は変えてもいい。引っ越しはしてもいい。でも、英語だけは一生やる。

特にペスクタリアンになって、ペスクタリアンを続けられている自信からか、英語は絶対にやるっていう何かがずっと生きている状態だ。

あなたにとって、それは金融かもしれない。それともファッションかもしれない。あるいは、法律分野だったり、料理かもしれない。

でも、一生続けられる何かがあるっていうのは、とっても素敵なことだと私は思う。この記事が誰かの何かを1つ確実にやり通す動機になっていただければ幸いだ。

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