新しいタイプのプロパガンダ!?海外在住、多言語話者でオカマの「まるちりんがーる」りょうこが言語や国際事情を独自の視点で発信していきます( ゚Д゚)/



当時のエチオピア皇帝の従弟と政略結婚も企んでいた「黒田雅子」の謎




日本から遠く離れたエチオピアという国。距離について言うと、東京からエチオピアのアジス・アベバまで直行便はないが、驚くことにお隣の韓国には、仁川ーアジス・アベバ(直行便)があり、13時間で行ける。成田から仁川まで行くのを合計すると、16時間ほどかかる距離。そう簡単には行けない国である。

またエチオピアと言えば日本には馴染みのない国に聞こえるが、エチオピアはアフリカ大陸にある国ながら、中東のサウジアラビアのちょうど真下に位置し、インドからアラビア海を渡ってすぐの場所にある地理的な条件、そして、豊かな歴史もあるせいか、中国が随分前から進出して交通インフラを整備している。

なのでエチオピアでは中国語を学びたいとか中国人に感謝している人の割合も多いと言われている。以前こんな記事も書いたけれども、中国は嫌われているのと同時に、好かれてもいるということは知っておくべきだろう。

「勤勉、信頼、尊敬?アフリカ人は中国人についてどう思う?【アフリカの反応】」

そう。エチオピアにおける中国の存在は高まっており、エチオピアの港の役割をしているジブチという国にも、中国軍が駐留する事態になっているのはあまり知られていない。

「中国企業、中国軍が海外に租借している土地や国(島) TOP10」

さて、そんな日本ではエチオピアでプレゼンスがないのかと言えばそうでもない。令和の即位礼正殿の儀には、エチオピア前大統領が来ている。

「即位礼正殿の儀(令和)に参列した各国の国王、大統領、首相リスト TOP10」

それよりも私はこの記事で、かつて日本人女性がエチオピア王室に継ごうとしていたことを書きたい。

サムネイル画像の和服女性と大勢の黒人につられてこの記事を読んでいる人も多いかもしれないが、私にとってもかなりインパクトがあったので、この記事で解説していくことにしよう。



①黒田雅子の生い立ち

まず戦前には色々な日本人がいたが、その中でも一際私の目に留まったのがこの黒田雅子(1912年ー1989年)という女性である。以前私は以下のような記事を書いていたが、その時に発見したのが下に載せた写真だ。

「オマーン国の「タイムール国王」と「大山清子」の間にできた「ブサイナ王女」と、オマーンの歴史」

雅子は、上総(かずさ)→現在の千葉県にある久留里(くるり)藩主で子爵(ししゃく)の黒田広志の次女。ちなみに子爵とは、公爵(1位)→侯爵(2位)→ 伯爵(3位)→子爵(4位)→男爵(5位)となり、第4位である。

ちなみに、こっちの雅子じゃないからね('ω')ノw→こっちの雅子は、本当のエンペラーの后となったけどね…。

「皇后(エンプレス)、雅子さまの英語力。と経歴に世界各国が注目!【海外の反応】」

で、話は戦前の雅子に戻そう。昭和8年(1933年)、彼女は「エチオピア皇帝(ハイレ・セラシエ1世)の従弟(リジ・アリア・アベベ王子)が妃に日本人を希望」との新聞記事を読み両親に無断で応募することとなる。

その際、応募者350人の中から第1候補となったが、同国に権益をもつイタリアの妨害もあって破談となってしまったとされる。当時エチオピアは、1936年5月9日~1941年11月28日の間、イタリアに併合されていた。。→ここは後で書こう。

ちなみにこのとき、イタリアの干渉以外に、宮内省からの消極的な態度もあったとされている。それ以来、雅子は幻の皇太子妃候補となったとされているが、一方で、昭和10年(1935年)にもモンゴル王子との結婚話が伝えられ、最終的には昭和11年(1936年)に日本人のエンジニア(米倉冬彦)と結婚したとされている。

また、平成元年1月28日、76歳にて死去。関東高女卒。というプロフィールのようだ。

※モンゴルは当時、ボグド・ハーン政権が、大モンゴル国(1911年~ 1924年)のTOPにいたが、その後は、モンゴル人民共和国になっており、このモンゴル王子というのは一体誰なのか。というのも謎である…。


②当時、今よりも自由だった日本人と外国人の結婚(王室、貴族レベル)



私のブログでも何度か書いているが、当時大日本帝国時代(1868年~1947年)結構な数の日本人女性が外国の王室関係者や貴族と結婚している。

結構な数といっても、私がまだ発見できていないもの合わせての数だ。私が知っている代表的な人は、上にも書いた「タイムール国王」と「大山清子」そして、日本でもものすごく有名なのが、やはり「クーデンホーフ光子」だろう。

彼女はその美貌が評価されているような気がする。

「当時の日本人には珍しい八頭身の美女で、EUの母「クーデンホーフ光子」は本当にヨーロッパで有名なのか?」

と、私が発見できていないものも含めると、今よりも外国人との交流がオープンではなkったあの当時でさえ、王室や貴族レベルで日本人とくっついている人がいるのだ。

その中でもやはり、上の黒田雅子の写真は、何やらいい味を出しているというか、一度みると絶対に忘れられない。そんなものに思えてしまう。

③当時はたくさんのエンペラーがいた



で、話は少し逸れてしまうが、当時は世界にはエンペラーがもっといた。現在でこそ日本のネット上でも、世界の「エンペラー」は日本の天皇だけ!と誇らしげに言う日本人もいるが、それは天皇をTennoではなく、Emperor という英語表記にしたからである。という声もある。

数十年前まではアメリカの傀儡政権だったイランにも、エンペラーはいたし、そしてこの記事にも話題にしているエチオピアにも、このようにエンペラーはいたのだ。

「エンペラーは日本だけではなかった。イランに「皇帝」が存在していた理由と、廃止されてしまった理由」

上の写真は、まさにこの記事で話題にしているハイレ・セラシエ1世。

お祈りをしたり、ローマ法王的な性格も一部持っている日本の天皇(tenno)が英語表記でEmperor と呼ばれているのとは違って、本物のエンペラーという感じでしょう?

その辺だけ覚えておくだけでも、ちょっと賢くなった気がしない?



④エチオピア帝国と、イタリアの植民地

さて、このようにエチオピアは豊かな歴史を持つ国であり、1137年~1974年(約900年間)もの間、エチオピアは帝国であった。これだけ長い王室が、1974年の軍事クーデターにより無くなってしまうのだけれどもね…。

また、1936年5月9日~1941年11月28日にイタリアに占領された歴史も持つエチオピア。まさに、雅子がエチオピア皇帝の従弟と政略結婚も企んでいた時期が、1933年くらいだったことを考えると、何か引っかかるような気もする。

かって「シバの女王」とか「ソロモン王」の後裔といわれたエチオピア王家にもし嫁いでいたなら、歴史がちょっと変わっていたかもしれない。

それこそ、エチオピアと日本が今よりももっと近い国で、エチオピアに日本の技術がいき、かなり発展していたかもね…。なんて考えてしまった。

そんなエチオピアは現在、アディスアベバ・ライトレールなんていう鉄道を作ったり、経済的な植民地化を進めてるけどね…。


⑤最後に

私は歴史家ではないので薄っぺらいことしか書けないが、以下、リチャード・ブラッドショーとジム・ランデルによって書かれた「1930年代の日本、イギリス、アフリカの黄危険」というジャーナルに掲載された文章によると、1930年代の日本は、現在の中国のように安い製品をアフリカに売ることで、アフリカでの存在感が増していたことに対して、南アフリカを拠点とするイギリスから恐れられていたこと。

これが、南アフリカにおける反日感情に繋がったことや、日本とエチオピアがこの時代、かなり親密になっていたことに対するイタリアの警戒があったとされている。

イタリアは当時、エチオピアを支配していたので、エチオピアと日本が近づくことで、エチオピア人が団結してイタリアをやっつける。ということを恐れていたのだろう。

このジャーナルによると、当時日本は満州(中国東北3省)を支配していて、イタリアはエチオピアを支配していた。満州に関してはヨーロッパから批判がかなりあり、それをイタリアに認めてもらうためにエチオピアを諦めたというようなことも書いてあった。

そういう中で進んでいた黒田雅子とエチオピア皇室の結婚。エチオピア皇室が日本人と結婚したことに対して、何かやはり謎があるに違いないと思うのだ。

Reference
https://apjjf.org/2011/9/44/Richard-Bradshaw/3626/article.html

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当時のエチオピア皇帝の従弟と政略結婚も企んでいた「黒田雅子」の謎 当時のエチオピア皇帝の従弟と政略結婚も企んでいた「黒田雅子」の謎 Reviewed by よこいりょうこ on 10月 27, 2019 Rating: 5

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