王室・皇室・国際政治

エンペラーは日本だけではなかった。イランに「皇帝」が存在していた理由と、廃止されてしまった理由

2019年8月8日

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エンペラーは日本だけではなかった。イランに「皇帝」が存在していた理由と、廃止されてしまった理由

2019年8月8日


現在キルギスのビシュケクでこの記事を書いている。ビシュケクに着いたばかりの頃、1泊だけ泊ったホステルで、日本人4人とお話したが、彼らはイランに行くということを聞いて、私はその話に圧倒されてしまい、今こそ、書きたかったイランのエンペラーの記事を書く時だ。と思い書いている…( ゚Д゚)

そう。私はずっとイランとアメリカがなぜ現在のような状態になっているのか。ということや、イランにかつて存在したエンペラーのこともずっと書きたかったがなかなかまとめられなかった。

で、話は少し遡って、2015年頃だろうか。私がブログを書き始めた頃なのだけど、日本のネット上では、日本の天皇(Emperor)は、世界で唯一のエンペラーなのだから、国王や女王よりも格上。などと根拠なしに広められていた。

けれども私は英語圏ではそんな情報はみたことない。と思いながら、以下の記事を書いたことによって、日本人の勝算: 人口減少×高齢化×資本主義などの著書で有名な、デービッド・アトキンソンさんとfacebookでやりとりするキッカケにもなった。そう。以下の記事、かなり褒められたのね…。→彼に褒められたことで私がブログを書く意欲も増したのは確かだ。

「エリザベス女王が天皇陛下と握手する際に、自ら一歩踏み出す理由」

で、話は戻って、そう。ただ称号がEmperorというだけで国王(king)や女王(queen)よりも偉いのなら、イランに数十年前まで存在していた皇帝(シャー)も、エリザベス女王よりも格上ということになる。

それはどう考えてもおかしいよね。

この記事では、現在のイランが成立する二つの時代を交えつつも、なぜ今イランがアメリカと敵対関係にあるのか。ということが少しでも分かっていただければ幸いである。

流れの部分にフォーカスし、なるべくすんなり分かるように簡潔にまとめた。

 

※ちなみに、イランの記事なので、おまけ情報として、ペルシア語の勉強をするメリットと、レッスンを受けてみたい方は以下ご参考に。

「ペルシア語を勉強するメリット、需要、重要性」

「1名限定。ペルシア語3ヶ月(2.5万円)で「頻出200~300フレーズ」完全暗記サポート【無制限保証付き】」

 

①現在のイラン成立前に存在していた二つの時代

まず現在のイラン(イラン・イスラーム共和国)が1979年に樹立されるまでに存在していた二つの時代を理解しなければ、今のイランを理解することはできない。

その二つが、以下である。

ガージャール朝(1779年 - 1925年)
パフラヴィー朝(1925年 - 1979年)

この二つの時代には、シャー(ペルシア語で王や、諸王の王を意味する)がいた。今のイスラム色が強すぎるイランからは想像がつかないかもしれないが、上の写真は、パフラヴィー朝イランの初代シャーであるレザー・パフラヴィーの写真である。いかにも、西洋の君主のように見えないだろうか。これには理由があるが、のちに説明する。

もう一度言うが、イランには現在王室は存在していない。なので以下の記事にももちろん含まれていない。

「日本(皇室)は最古じゃない?世界一古い王室(王朝) TOP25」

ちなみに、イランの君主がEmperorだと言われる理由は、古来からペルシア(イラン)で諸王の王=シャーという認識があり、その歴史を知っている英語圏の人たちが、イランの君主は、King ではなく、Emperor というふうに認識する人もいたので、これがいわゆるシャー=Emperor という称号に繋がる。

通常、Emperorと言えば皇帝なので、イギリスの女王で、当時植民地支配していたインドの女帝(初代インド皇帝)だったヴィクトリアのように、帝国のトップである。というイメージがつくが、イランのシャーや、日本の天皇は、特別にこのEmperorという表記を使っているようにも思える。

ちなみに、日本の天皇も、植民地支配をして、大日本帝国の皇帝でもないのにもかかわらず、英語表記においてEmperor という称号を使っている理由は、昔、中国の皇帝に対抗できるような対外的な名称が必要だったという説もある。


「日本のエンペラー(天皇)や皇室について、キミたちが知らないコト TOP10【海外の反応】」

 

②一つ目の時代は、イギリスとロシアの半植民地時代

イランはガージャール朝(1779年 - 1925年)時代、特にこの時代の後半は、半植民地状態にあったと言われている。(その内容は、「③イギリス最大の企業はイランから搾取したのが始まり」に書いたが、そこに行きつくまでにイランという土地は、ロシアやイギリスに狙われていた。

例えば、ゴレスターン条約だ。これは現在のアゼルバイジャンにあるゴレスターンという場所で取り決められた条約だが、1804年以降始まっていたアスラーン・デジュの戦いで、ロシア帝国側がイランに勝ち、グルジアに対する主権の放棄や、長らくイランの領土であったアゼルバイジャンのロシア化へと繋がっていく。

またイランは近代化をしようと兵制改革や近代的教育機関の設立、金融などの改革が幾たびか試みたが、十分な成果を得ることはできず、むしろ費用だけが膨らんでいった。

そんな中、当時のイラン政府は鉄道や電信などの利権をイギリスを初めとするヨーロッパの商社などに売ることでこれをしのごうとした。

つまりイランの利権がヨーロッパなどに奪われていくということを意味する。

このようなガージャール朝時代におけるイランの弱さが、現在のイラン人を創り出したとも言われている。つまりヨーロッパに搾取されていく中で、自分たちはイラン人である。ヨーロッパに対抗する必要があるという意識。その中で、シーア派イスラームと政治との関わりを濃密なものとさせたとも言われている。

つまり明治維新のときに日本人とはこういうものである。というものが形成されていったように、イランも欧米列強の時代に現在のイランという国の土台みたいなものが出来上がったのかもしれない。

明治元年(1868年)から20年後くらいにイランでは、タバコ・ボイコット運動というものが行われていた。これは反王政運動である。

ガージャール朝の君主ナーセロッディーン・シャーが次々とヨーロッパ諸国に経済的権益を渡していったことが原因。つまり、イラン人の嗜好品であったタバコの独占的販売権をイギリス人に与えていたのだ。

一般のイラン人からすれば、王室=ヨーロッパと繋がっていると不信に思われていたということ。これにより、ますますイラン人としてのアイデンティティは形成されていくことになる。

日本では天皇家に対してこのような不信はなかったが、それとは対照的にイランでは、国民が王室に対して不信感を抱いていた。と言えば分かりやすいだろうか。

 

③イギリス最大の企業はイランから搾取したのが始まり

https://www.geograph.org.uk/photo/6092291

1901年にイランで石油が発見されてしまう 。そして、イランで石油を発見したウィリアム・ノックス・ダーシーとイラン側で結ばれた「ダースィー利権」によって、この石油の利益の多くがイギリス側に持っていかれるという状況が生まれてしまった。

彼はなんと7年間も努力しイランの石油を見つけたという。これが中東で最初の油田発見であるということもポイント。

そしてアングロ・ペルシャン石油会社が創設される。この会社の名前を是非覚えておいてほしい。

なぜなら、2019年8月現在、フォーチュン・グローバル500企業の中で7位、イギリスとしては1位に立っているのが、BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)という多国籍企業であり、この企業の前身がまさにアングロ・ペルシャン石油会社だからだ。

つまりイギリスでナンバーワンの会社が、もとはというとイランの石油掘削会社から始まったということである。

で、話はガージャール朝に戻そう。この時代、二人のシャーがいた。

モハンマド・アリー・シャー
アフマド・シャー

初代シャーで、アフマドの父であるモハマドは、1909年7月16日にシャーの地位を降り、すぐにロシア大使館に逃げ込み、その後ロシア(現ウクライナ)のオデッサに亡命し、息子で二人目のシャーであるアフマドも、フランスへ赴き、1930年、パリの近郊であるヌイイ=シュル=セーヌで病没している。

で、この時代が終わってしまった理由は、まさしく英露協商(1907年)であると言われている。当時、南下政策でシベリアより下の満州や、朝鮮半島を狙っていたロシアが日本に敗れたが、ロシアはイランやアフガニスタンなども欲していた。(ロシアにとっては全て南に位置する国)

その中でロシアにとって世界中で力を持っているイギリスという存在が邪魔だったのである。けれども、ロシア=イラン北部、イギリス=イラン南部のように、イランをお互いに分け合おう。(勢力として)ということで勝手に決めたのが、英露協商。→正式な植民地化ではない。

それからイランでは無政府状態が続き、その中で登場したのが、レザー・パフラヴィーである。1921年に、クーデタを敢行し、軍事大臣に就任。そしてレザーは軍事改革を実施し、アフマドの実権をほとんど奪ってしまった。

1923年には、首相に就任し、1925年の国民議会の可決により、ガージャール朝を廃し、シャーの地位に即位する。

 

④二つ目の時代は、アメリカの傀儡国家

次にパフラヴィー朝(1925年 - 1979年)について語ろう。ここが重要な部分である。上でも説明したが、レザー・パフラヴィー(この記事の一番上の写真)が皇帝(シャー)としてイランを動かすことになる。(ここもポイントだが、彼はもともと王族の血は引いていない)

彼の凄いところは、司法改革、国民銀行の創設、義務兵役制度、さらにアメリカから財政顧問官を招聘することによって、財政改革を進めたり、差別的な風潮を無くすために女性解放の制度を定めたり(現在多く存在するイスラム国家よりも進んでいる)、教育改革など、近代化に努めたことである。

また、国際連盟に加盟、国号をペルシアからイランに改名(1935年)。一見、全てが順調に見えるが、彼の大胆な独裁的な行動や、イスラムを軽んじた行動は国民からの反発を招くことになる。

で、彼が退位することとなった理由は、まさに第二次世界大戦である。このとき、レザーは、枢軸国(日本やドイツ)寄りで、さらに親ナチス・ドイツ的な政策を採ったため、このことにより、1941年にイギリスとソ連の連合軍が侵攻してくることになる。→これをとイラン進駐 (1941年)という。

その際、息子のモハンマド・レザーに帝位を譲って退位することを余儀なくされる。その後、モーリシャス島に事実上亡命した。

そして、皇帝は息子のモハンマド・レザー・パフラヴィー(在位:1941年9月26日 - 1979年2月11日)になった。

日本では、パーレビ国王と呼ばれていたが、英語圏では、Emperor と表記する場合もあった。1949年、日本が敗戦して苦しんでいる中、イランの皇帝はアメリカでトルーマン大統領と会見。(ホワイトタイ着用もポイント)

※アメリカ大統領も、ホワイトタイでお出迎えしているではないか。日本のサイトでは、ホワイトタイでお出迎えするのは、日本の天皇、ローマ法王、エリザベス女王しかない。とまで書いている人がいたけどね…。( ゚Д゚)

この写真を見ると、まるで日本の天皇が渡米し、会見を行っているかのようである。つまり、アメリカ側からすると、お偉いさんが来た。そしてこのお偉いさんは、アメリカファーストなのである。と国民に誇示しているかのようだという意味だ。

というのも、アメリカには王室がないので、アメリカ国民は、自分の国にない王室に対して新鮮な目で見るからであろう。それがたとえ自国よりも国力が低くてもだ。

この写真。ゴールドで埋め尽くされている。イランの対岸にあるサウジアラビアのイスラム教色が非常に強い王室な雰囲気とは対照的に、フランスの王室なのか。と錯覚させられるような、ヨーロッパな印象を受ける。

※ちなみにペルシア語には多くのフランス語由来の借用語が入っている。また、イランは大のフランス好き…。

List of French loanwords in Persian

で話は戻って、モハンマドは何度でもアメリカに行く。そして行くたびに、大統領はホワイトタイでお出迎えしてくれる。こんな時代が続いていた。ということは、今の世代の人たちは知らないかもしれない。事実上、イランはアメリカにとって最恵国待遇を受けていた。

その理由は、イランに石油があるから。というのもあるが、白色革命をしたことによって、イランはイスラム教国家なのにもかかわらず、イラン自体を西洋化したからだ。

白色革命(王の命令を意味する)により何をしたことは以下である。→この革命にはケネディー大統領も関わっている。

・農地改革
・工業化
・労働者の待遇改善
・女性参政権
・教育の向上(国民の識字率の向上で成果を上げた)
・国内の資本と支持基盤を地方の地主層から中央のブルジョワジーに移動

もう一つ、現在のようなイスラムによる国家というよりは、イラン人がアーリア人、つまり白人であることを意識し、ヨーロッパと同じである。という考えを普及させたりもした。

「なぜ「アフガニスタン人」や「イラン人」「クルド人」の瞳の色はブルーやグリーンなのか?【海外の反応】」

このような改革を進めていったはいいが、結局石油だけに依存した経済だったので、1970年にオイルショックが起き、やがて貧富の差が拡大したり、アメリカの傀儡とも言われていた王室に対する不満は増大していく。

モハンマドはやがて、イラン国民に嫌われていく。そんな中、モハンマドはがん治療という名目でアメリカに渡る。

一方、モハンマドの事実上の亡命を受け入れたアメリカに対して、イラン国民はブチギレ、イランアメリカ大使館人質事件(1979年)に繋がっていく。

ウィキにも書かれていたように、

アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。大量の各種機密書類やアメリカ合衆国ドル紙幣をシュレッダーにかけたり焼却処分にしたほか、通信機器やビザのスタンプなどを破壊することに成功した。

このことにより、アメリカの面子を潰すようなことをしてしまったため、アメリカとイランは国交断絶状態になってしまう。

考えてみて欲しい。当時のアメリカは、世界全体におけるGDPの割合において一人勝ちとも言える状態であった。(現在は中国やほかの国も豊かになったのでバランスが取れてきているが)

当時のGDP(国内総生産)を見ると、アメリカ(254兆円)に対して、イラン(8兆円)である。つまり、当時の日本(103兆円)の10分の1であり、イランの人口も、人口は2019年時点では8000万人いるが、このときは、その半分の4000万人

分かりやすく言うと、当時のアメリカとイランの関係は、現在のアメリカと北朝鮮くらいの関係(経済的なレベルで)

そんなイランにアメリカ国民が人質に合われてしまったら、アメリカ人がブちぎれるのも無理はない…。

 

⑤現在のイランの成立と、アメリカを嫌う理由

この長らく続いた西洋化の時代が反動となり、イラン・イスラーム革命(1979年)が起きた。数百年続いたイランにおける王室は廃止され、にアーヤトッラー・ホメイニー(最高指導者)の下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。

現在イランには、ハサン・ロウハーニー大統領と、その上にあたる最高指導者アリー・ハーメネイーがいる。

というように、シャーはいなくなったが、最高指導者という形でイランは現在イスラム色が強い国になってしまった。

日本人には理解しづらいかもしれないが、日本人が仏教や神道の伝統を重んじるのと同じで中東諸国の人たちも、イスラム教に強い誇りを持っているため、イスラム法学者は非常に尊敬されている。

と同時に、イランには他のイスラム教国でヒジャブを被らなければならない国(左)とは違い、右の写真のように、「ちょっと頭にスカーフつければ、OKだよね!?」的なノリがある。

なぜなら現在のイラン人はまさに、アメリカの傀儡政権だったパフラヴィー朝(1925年 - 1979年)の影響を強く受けているのでね…( ゚Д゚)

左がサウジアラビアに多いタイプ。右はイランである。こういう意味ではイランはそれほど厳格なイスラム教国家には見えないが、やはり今現在のイラン人を知るには、アメリカの傀儡国家に近かった時代や、イギリスやロシアが介入していた時代を知ることが必要なのだろう。とこの記事を書いていて思った次第である…。

※かなりまとまりのない文章になってしまったが、何か吸収できることがあったなら幸いだ。

⑥亡命政府も存在する…

最後に。余談だけど、イラン帝国亡命政府というものが、アメリカにある。これは1979年のイラン革命によって亡命したパフラヴィー朝の復活を求める政府。本拠地はアメリカ合衆国のポトマック。(ガージャール朝の亡命政府も存在する)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A1%E5%91%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C

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